柔道の元となった柔術の時代には、出稽古、つまり道場破りのようなことが行われていたようです。
実際に道場の代表が敗れた場合は、看板を持っていったという話の信憑性は定かではありませんが、いくつか流派があったのでその様なことは行われていたようです。
柔道は講道館がとりまとめをしているため、流派と言うものはほとんど聞きませんが、空手などでは流派が入り乱れている印象を受けます。
昔は出稽古と称していましたが、今ではそのような道場破りのようなことは行われていません。
かわりに今行われているのは、遠征と呼ばれるもので、学校でしたら他の学校に出向いて試合をしたり、合宿をしたりして他校のレベルや自分の弱点などを知る機会になっています。
ある意味腕試しの意味合いもありますが、毎日同じ相手と練習するよりも新しい発見があって良いと思います。
昔の流派分裂統合戦争
昔は、たくさんの流派があり、それぞれが最強と謳っていた時代がありました。
昭和の映画にも、道場破りを題材にしたものが上映されていましたが、元々は一つであったと考えられます。
それが、後継者問題や利権がらみなど、今の流派が多い空手でも同じようなことが起きていますが、多数の流派に分かれていました。
当然、自分の流派が一番と考えるうちに、同じことを考える他の流派と衝突することになります。
血なまぐさい争いもあったようですが、出稽古の意味合いは現代とは違っていたようです。
現在行われている出稽古
今では、そんな命を取ったり取られたりと言った争い事はありませんが、代わりに優劣を付ける試合をするようになっています。
以前は試合の時だけ、他の学校や道場の人たちと顔を合わせるような状況で、ある意味道場破りのような雰囲気もありました。
それが、遠征と言う形で、他の学校に行ったり来てもらったりして、練習方法の違いや、練習のコンセプトの違いを感じることになります。
最も意識が変わるのが、毎日同じ相手と練習しているマンネリ化の脱却で、癖を知っている相手ではなく、全く知らないタイプの相手と練習することで、対応できる幅を広げることにあります。
それに仲も良くなり、情報交換したりするようにもなり、友好と言う意味でもいいと思います。
実際に数校集まって合宿をしたりもしましたが、それぞれが目からうろこの発見もあり、有意義であることの意味合いが大きいと感じました。
野球でもサッカーでも遠征試合をしていますが、同じような意味合いで、自分が対応出来ることの幅を広げていくことも大事だと思います。
柔道の他流試合
柔道にも今の形になる以前に他流試合というものが存在し、明治時代には講道館以外にも流派があったようです。
ただ講道館としては、嘉納治五郎先生が、柔道と言うものを広めるために行っていたようで、昔のように流派潰しが目的ではなかったようです。
太平洋戦争後、現在の講道館柔道のみという形になったようですが、これが柔道に流派が無い要因になります。
ちょっと昔の映画のように、道場破りなどがカッコ良く感じ、腕試しをやってみたいと憧れることもありましたが、夢は叶わないようです。