柔道を編み出し、講道館を創設した嘉納治五郎先生は、以前からある柔術の技を研究してきました。
戦国時代から人を殺すために進化してきた柔術ですが、江戸時代の平和な世の中になり使うことも徐々に無くなっていきました。
実際に使う為ではなく、町の道場で体を鍛えるために教わるといった具合で、現代のような形になります。
しかし、柔術は流派が多く、自分のところが一番強いと自負するだけでなく、他流試合にまで発展するようになります。
この状況を嘉納先生は、あまりよく思っておらず何か方法は無いものかと考え編み出したのが柔道というわけです。
柔道では、柔術の危険な技を廃止し、体つくりや精神鍛錬に必要な部分を残すと同時に、考え方についても教訓として掲げることになりました。
これが俗に言う、柔道の精神と呼ばれるものであります。
精神に関してはいくつか名言が伝えられていますが、中でも講道館に格言として掲げられている2つをご紹介します。
精力善用とは
嘉納先生の挙げた柔道の精神とは何かと言うと、精力善用という言葉で表されるように、精力=心と体を有効に使い、世の中のためになる良いことに使いなさい、という教えです。
よく、武道を学んだものの中には、ケンカで使ってみたり、犯罪に使ってみたりと、とても世の中のためにはならないことに使われることがあります。
先生は、これを特に嫌っており、目的が違った方向に行っていることを嘆いているのではないかと考えられます。
この柔道を学び、自分を鍛錬して強くし、世の中の役に立つように使うことが、人格形成を促し、結果的に世のため、みんなの為になる考えのようです。
自他共栄とは
自分のためだけでなく、人のために何事も考え行動すると言う教えですが、相手を敬うことで助け合い共存することが出来るという考えです。
これは、礼に始まり礼に終わるの精神にも通じますが、相手を尊敬し試合の前には必ずおじぎをする。
こうすることで相手に敬意を払い、尊重し、見下したりすること無く相手と闘うことをしなさいということに繋がるのです。
試合の前に、おじぎを疎かにし、いかにも相手を見下したり、馬鹿にしたりする態度を取る人がいますが、そのような態度や考え方を禁止するものです。
以前は、この精神に厳しい審判の場合、敬意を欠いたとして即時失格、一本負けになることもあったようです。
因みに現代では柔道より剣道のほうが礼儀を重んじる傾向があり、礼儀がなっていない場合は、否応無しに一発で失格になるようです。
柔道の精神も同じように厳しい一面があり、そのような人間に柔道をする資格は無いでしょう。
柔道は何のためにあるのか
柔道をしていると、つい強くなっているのかと腕試しをしたくなりますが、嘉納先生はそのようなことを嫌っていたようです。
そんなことに使う位なら、世の中のために使うことを考えなさいと弟子には言っています。
確かに、柔道はスポーツ化したとはいえ、簡単に人に怪我をさせることが出来る武道であることは間違いありません。
要は、使う人次第ということですので、その人の成熟度が見えるのではないかと思います。
なお、どうしても腕試しをしたいのでしたら、警察や機動隊、自衛隊の人たちを相手すると良いでしょう。
そのような未熟な考えも一発で吹き飛ぶと思います。